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東京高等裁判所 昭和26年(う)1299号 判決

控訴人 被告人 佐々木馨吾

弁護人 清瀬一郎 内山弘

検察官 稲葉厚関与

主文

本件控訴はこれを棄却する。

理由

本件控訴の趣意は弁護人清瀬一郎、同内山弘作成名義の別紙控訴趣意書と題する書面記載の通りであるから、これを本判決書末尾に添附しその摘録に代え、これに対し次の通り判断する。

論旨第二点について。

原判決挙示の証拠に依れば、被告人は自己竝にその妻である原審相被告人佐々木しまが、いづれも麻薬中毒患者であつてその中毒症状を緩和することに施用するため、原判示第二掲記の期間、自宅において原判示数量の塩酸モルヒネを所持していたことを認めるに足るのであるから、右のような目的で自宅において被告人が麻薬を所持したことは、被告人が浜松鉄道診療所長たる医師として麻薬取扱者たる地位身分を有していたとしても、所論のように業務の目的の範囲内の行為であるということはできない。蓋し、所論のように、被告人の右麻薬の所持が、被告人及びその妻しまの胃痛又は神経痛の鎮静のために施用することを目的としたものであることは、原判決挙示の証拠に照らし、これを肯認し難いところであり却つて前記のように自宅において自己及びその妻の麻薬中毒症状の緩和に施用するためであつたとすれば、麻薬取締法の禁ずる目的のため麻薬を所持していたこととなるからである。このことは被告人が医師であることの故に、その理を異にする理由を見出し難い。しからば、被告人の右麻薬の所持を業務の目的外の所持と認定した原判決は正当であり、所論のように条理に反するものではないから論旨は理由がない。

第三点について。

原判決挙示の証拠就中被告人の検察官に対する第二回供述調書中の供述記載に依れば、被告人は昭和二十五年九月十八日麻薬施用者である浜松東鉄道診療所長の地位にある医師として、業務上日本国有鉄道の公金により、木俣文四郎から塩酸モルヒネ末五瓦入十瓶を代金八千二百十円で買受け、これを麻薬管理者として同診療所の金庫に入れ業務上保管中、原判示第一の(一)乃至(四)の日頃、塩酸モルヒネ末五瓦入一瓶宛を、専ら自宅において自己竝に妻佐々木しまの麻薬中毒症状緩和に施用するため、右診療所の金庫から持ち出し、自宅に持ち帰つたことを認めることができるのであるから、被告人が右麻薬を自宅に持ち帰つた所為は、自己の占有する他人の麻薬を不法に領得する意思を表現する行為に外ならない。原判決が所論のように右麻薬を浜松東鉄道診療所の所有にかゝるものと判示していることは、その買受資金が、日本国有鉄道から支払われている点から見れば、正当でないとしても、その所有者が、いづれにあるを問わず、被告人個人が右麻薬を買受け、これを所有したものではなく、被告人は、浜松東鉄道診療所長として他人の所有する麻薬を業務上保管していた者であり、しかも、これを、医師たる同診療所長として、同診所における正規の医療行為のためにのみ使用する権限を有するに過ぎず、これを自己又はその妻の麻薬中毒症状緩和のため自宅に持ち帰ることは、同診療所長の権限内の所為であるということはできない。被告人が、所論のように日本国有鉄道の職員であり、被告人の妻しまは、その家族であつて、被告人が治療し施薬する義務のある対象であるとしても、このことは、被告人が右のように麻薬を自宅に持ち帰つたことを不法領得の意思の表現であると認めるに妨げとなるものではない。しからば、被告人の右所為を業務上横領罪に問擬した原判決は結局相当であり、原判決には所論のような違法はなく論旨は理由がない。

(その他の判決理由は省略する。)

(裁判長判事 近藤隆蔵 判事 吉田作穗 判事 山岸薫一)

弁護人の控訴趣意

第二点原判決が被告人の昭和二十五年九月十八日乃至十月二十五日までの自宅に於ける麻薬所持を以て業務目的以外の所持と認めたのは誤りである。而して此の所持が業務目的内であれば此の所持には麻薬取締法第三条第二項の適用なく、従つて是亦同法第五十七条の制裁を受くべき場合に該当せざることとなり、判決に重大なる影響を及ぼすことは疑いない。

(一)前論点に於て証明した如く、佐々木しまが麻薬中毒患者であつたことは疑はしく、少くも同人に対する塩酸モルヒネ溶液の投与は中毒緩和のためではなく、腰痛鎮静の為めであつた。これと同様被告馨吾自身も亦医学上麻薬中毒患者であつたとの証拠は薄弱である。土肥鑑定人の鑑定は二十六年一月には中毒患者なることを否定して居る。それは第二として同人が自己に対し麻薬を用いたる理由として述ぶるところは次の通りである(記録一二二丁)「問 什うして麻薬を使用する様になつたのかね。答 普通の注射では、痛みが完全に治らなかつたし、鉄道の方の関係で次々と患者が来ましたので私が一人しか居なかつたので休養することが出来なかつたのでつい其の場しのぎに麻薬で直して居つたのでした。問 悪るくなるのは寒い時だけであつたか。答 主に寒い時でしたが、体を使い過ぎた時も悪るかつたのです」なお被告人自身麻薬がきれると足がだるくなるといい、自ら中毒患者であるが如く陳述したることに関連する質問応答は次の如くである。「問 それを逃れるために注射するのか。答 然うです。問 それは本来の被告人の病気の三叉神経痛とか座骨神経痛を直す為めではなかつたのか。答 左様です、然しそれ等の病気が併発する場合もあるのでしてそう云う時も度々あるのです」。右問答は極めて卒直であつて、寧ろ被告が進んで中毒患者なることを買つて出ようとする傾きがあるが、それでも注射は中毒緩和のためのみでなく之と併発する座骨神経痛を押え、捨て置き難き医務に従事せんとする為めであつたものと解せられる意味の陳述をしている。しかし警察及び検事に対してはその意見に反抗するを不利と考えたか、之に迎合する供述をして居ると認むべき理由が多々あります。

被告人馨吾は医師であり、且つ自ら鉄道職員であり従つて自らを診療所の費用で治療することも出来、家族を治療することも出来る。それがため麻薬を所持することは業務の目的外の所持ではない。妻に投薬した場合の如く専ら鎮痛のためであるときは無論であるが、自己に対し中毒症ありと思考しつつもこれと同時に鎮痛の目的を以て繁忙なる医務遂行を為さんため独自の判断で麻薬の一定量を用いたというが如きは麻薬取扱者の業務目的の範囲内の事であると判定するのが健全なる判断である。

(二)更に極言すれば、次点に於ても陳ぶる如く麻薬の使用が仮令行政取締規定に合せずとも医家の判断に於て一種の治効ありとして麻薬を使用することは彼のブローカー等が之を他に転売し利得を得る場合とは異り依然医家業務目的の範囲内の所為と解すべきである。

以上本論点に於て言はんと欲するところは、(一)麻薬取扱者であつた被告人の昭和二十五年九、十月の麻薬所持は鎮痛の為めの使用を目的としたもので合法であつた。(二)仮令それが中毒緩和目的をも併有し行政取締規定に触れて居つても医家としての使用のため之を所持するは業務目的外の目的に由るものではないという二重の事を主張せんとするのである。之に反する原審の判断は甚だしく条理に違反するものであり、必ず控訴審に於て是正さるべきである。

第三点原審が判示第一の(一)乃至(四)に於て被告人自身が使用決定の権限ある麻薬を自己並に家族の疾病に関して施用するため自宅に持ち帰りたることを以て横領であるとしたのは刑法の適用を誤つた違法を犯すものである。

原判決は浜松東診療所なるものの本質及び被告人の麻薬取締法上の立場を十分に研究考察して居らぬ憾みがある。浜松東鉄道診療所というのは独立の病院でもなく法人でもない。これは日本国有鉄道(昭和二十三年法律第二五六五号に依る法人)の従業員の組織する共済組合の福利施設の一部に過ぎぬ。原判決は判示第一の(一)乃至(四)を通じて被告が「浜松東診療所所有に係る」麻薬を横領したと説示して居るが、右浜松東診療所なるものは、右の如く法人でもなく又独立の組合でもない。斯の如きものが麻薬を所有し得る筈がない。然らば右診療所を設備したる本体たる国有鉄道共済組合が麻薬を所有したりやというに是亦然らず、診療所に於て貯蔵し使用する麻薬は結局同診療所所長である被告佐々木に於て譲受及び管理の責に任ずるものである。(麻薬法第二条第十項)。資金は共済組合から出て居るに相違ないが、その譲受人、管理人が佐々木であり、処分権限(使用権限)が佐々木に在る以上、組合は信託者であろうが、その使用権限処分権限を有つて居らぬ。これ等の権限は被告人に在つたとすれば、同人が右麻薬の保管場所を変更したとて横領の犯罪が構成せられる筈がない。なお、右診療所は組合の福利施設であり(規則一〇〇条)鉄道職員の疾病に対しては無料にて施薬し、治療しその家族の疾病に対しては半額の経費にて施薬治療すべき規定となつて居る。而して被告佐々木馨吾自身は鉄道職員である。その妻しまは其の家族である。共に被告佐々木が治療し施薬する義務を負う対象たる人物である。被告馨吾が診療し施薬すべき義務ある患者に対し鎮痛又は中毒緩和のため或る薬物を自家に持ち帰るという事は横領となろう筈がない。唯その薬物が塩酸モルヒネと称するものであつたが為め、其の用法によりては法律違反(麻薬取締法第三九条違反)となることがあるかも知れぬが(本件の場合には必ずしも左様でない事は前二点で論じたが)、斯の如き行政取締的の法規の違反の有無は別箇の問題である。医家殊に法律で認められた特権ある特定薬物の取扱者がその医家としての見識の下に患者に対し投薬することは、その本来の任務の範囲内であり、従つて権限内の事である。之を不法領得ということは出来ぬ。もし万一本論旨第一、第二に引用した事が虚誕であつて、しま並に被告自身の麻薬使用は毫も鎮痛に関係なく中毒緩和か、中毒治療のためのみの麻薬使用であつたならば(事実は左様でないが)被告は麻薬法第三九条の行政規定違反の責任を負えばそれで良い。それが為めに更に重ねて刑法上の横領の責任を負うべきものではない。もし麻薬法違反となるような麻薬使用は合法的の治療法でないから医家の権限外である。従つて横領であるという議論を徹底するならば麻薬を中毒緩和のために使用した場所がその診療所内であつても同様常に必ず横領罪は成立すると痛論しなければならぬ。豈、斯の如き事あらんや、病院又は診療所勤務の医師が自己の診断と処方に依り施薬した場合に於ては、縦令、その施薬が行政規定に反するも施薬は即ち施薬であつて、横領ではない。原審判決が訴因第一の(一)乃至(四)の行為を以て横領罪を構成するものと解したるは不法且不当の判断である。

(その他の控訴趣意は省略する。)

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